カヌー息子と2人東欧の旅(オーストリア・チェコ・スロバキア・ハンガリークロアチア・スロベニア・ドイツ)

05/05/18 20:31:56

カヌー東欧の旅

2000年9/28〜10/26 息子と2人東欧の旅


2000 10/11 スロバキア リプトシキミコラシにて 
アトランタC-1金メダリスト
シドニーC-1銀メダリスト ミカエル マルティカン選手と息子

12歳の息子と2人きりで約1か月間、ヨーロッパにカヌーを見に行く。
学校を1か月休ませ、往復のチケットとわずかな予算で、知合いも無く泊まるところも決めず、10代の時の旅を思い出し、
自由な翼を取り戻したと言うより、子連れというリスクに不安の方が大きく、緊張と不安で寝不足の旅が続いた。

息子と私とは一つの夢を持っている。
シドニーオリンピックを見ていても、カヌー競技の話題はほんの僅か、国内のカヌーの事を見ていても、
カヌーはマイナースポーツ。カヌーが乗れる環境も年々悪化している。
スキーのコンバインドは、荻原選手達の活躍で、あれだけ話題になり一つのマイナースポーツが脚光を浴びた。
カヌーの世界も誰かが世界に出ていってメダルに手が届く人間が出ないことには、10年後20年後の日本のカヌー環境はどうなってしまうのだろう。川にほとんど触れ合わない今の日本人にとって、失われていく今の川の現状、自然環境をどうしたら伝えて行くことができるのだろうか。
アトランタオリンピックの時、東欧の小国スロバキアから17歳の少年がカヌーで金メダルを取った。
親子で目的を持ち5年目のことだった。

何年も前から「おまえは海外でカヌーをやるんだ」と息子に常々洗脳してきた。
1年前から学校にも長期間休むことをお願いしてきた。
時間も取れたけど資金がない。飛行機も抑えなければならないし、とうとうタイムリミット。
気は焦るが実力が伴わない、急ぎの仕事をしながら、もうほとんど諦めかけた時、。
飛行機のチケットが取れたのは出発の2日前。
1か月も留守にするので山のような仕事をこなす。
前の晩は近所の人達がバーベキューで壮行会。二日酔いのまま成田へ向かう。
東京→クアラまでただでさえ美味しくない機内食がぜんぜん喉を通らない。

9/29日本からマレーシア経由でウイーンへ、1人往復\73,000という安チケットで20時間以上かかってウイーンに着く。

9/30朝の6:00頃ウイーンの空港に到着。
到着の4時間前から起きていた息子は、着陸直前にまた眠りだす。
寝ぼけたままの6年生に荷物を持たし、顔にビンタを2発、やっとの思いで機外へ連れ出す。
降り立ったそこは、僕にとっては20年ぶりのヨーロッパ、たぶんこの空港も建物もアフリカから彼女に会う為に戻った時降りた空港で、ついこないだの事のように思っていた20年前の記憶はもうほとんど無かった。


最初のトラブル。持って行ったパドルが折れていた。
機内預かりの荷物をターンテーブルで待っていると、2つのリュックサックの他に袋にいれてあったカーボンのパドルが真中から二つに折れていた。確かに成田で荷物を預ける時「不測のことがあるかもしれませんので、この書類にサインをしてください。」と賠償請求をしないと言う書類を書かされていた。まさか壊されるとは思ってもいなかったので2人してガッカリ。
マレーシア航空のグランドスタッフをつかまえて文句を言うが、だめだった。
9:00にツーリストインフォメーションが開くので、空港の中のマクドナルドで時間をつぶす。
「はじめてのお使い
息子にコーヒーを買いに行かせたら、コーラを買ってきた。
「何度コーヒーと言ってもコーラしか出てこない」と泣きそうな息子。
面白がって取りかえに行かせる。 彼にとって最初の記念すべき障壁。
9:00ツーリストインフォメーションで2名バス・トイレincでリンクの中USj50ぐらいでと言う条件で宿を探してもらう。
空港から中心地リンクまでバス 大人ats70 子供ats25 (オーストリアでは16歳まで子供だそうだ) 

 
パンプキンフェスタ ウイーンの街角でカボチャのスープと色々なハム・ソーセージ・ワイン等
美味しい物が露店で売られている。スモークの味が最高。

ウイーンではリンクの中で宿を取る(スパイ映画で有名なカプリコーンHotelの近く)、少々高い(ats1000/ツイン1泊)が便利なことと安心だ。
また゜チェックインの時間ではないが、20時間以上狭い座席での移動の汗を落とすため部屋に入れてもらいシャワーを浴びる。
荷物をおいて時差ぼけのまま街に出る。
大聖堂を見てまわったり、およそ自分1人では絶対見てまわらない観光旅行のような名所旧跡を歩く。
ふと街角を歩きながら、息子と2人きりでヨーロッパを歩いている姿が夢を見ているようで、息子のほっぺをつねってみる。

飲み水を買い忘れてしまった。 そうここは日本とは違うのだ、夜飲む水を買わなければならない、すっかりそんなことも抜けていた。
テレビのアニメを見ている息子を部屋において、夜の町に買出しに出かける。もし何かがあって帰れないことがあったら、「子連れ狼」の大五郎のようにチャンを何日も待っているのだろうか、と考えながら綺麗なお姉さんに目を奪われながら夜の街に溶けて行った。

 
前回ウイーンに来た時近寄りもしなかった、映画「第3の男」で有名になった観覧車に乗りに行く。
息子孝行の為、決して自分では率先していかない遊園地まで来てしまった。
僕自身はあまり人ごみが得意ではなく、まして列を作って並らばなければ為らないような状況や、お土産物売り場が軒を連ねている所は進んで近寄りたくない。(過去アテネのアクロポリス神殿の麓に2度合計2週間ほど滞在しているが、何時か行こうと思っていたのだがまだ丘の上に上がった事がない。)
ここまでサービスして12歳の息子の心にどんな影響があるのだろう。
昔来た時に比べ街が荒んで見える。

2日滞在しプラハへ列車で移動。(チケットは旅のし方によって現地で手配する方が東欧レールパスより安い)
10/2 VIENA Südbf(Ost)10:55→PRAHA15:21  CL2   Eur37(私) Eur18(息子)
ヨーロッパでの汽車の乗り方をすっかり忘れてしまっていた。
時間がなかったこともあって、食糧も買ってなくギリギリに乗った汽車で、Noリザベーションの座席を探さなければならない事も抜けていた。
運良くイタリア人のカップルが座るコンパーメントに座らせてもらいどうにか席を確保する。


イタリア人のクラウディアさんと息子

ウイーンを出発し30分程すると、列車の中にオーストリアとチェコ双方の係官がパスポートチェックに現れ、2列先の出稼ぎ帰りの御婦人がオーバーステ-をしていたらしく、オーストリアの係官に国境の駅で下ろされた以外は、国境はあっけなく終る。
昔「鉄のカーテン」があった事は、息子にも隣の若いイタリア人カップルにも実感が沸かないだろう。
ひたすら田園の中を列車は走って行く。
銀行員と学生のそのカップルは僕らと同じPRAHAへ行く。
英語のできる彼に通訳をしてもらいながら、何時までも続く列車の中で話が弾む。
息子とはプレーステーションの話や日本のアニメの話で共通の話題ができる。20代前半の2人は 子供の時から「マジンガーZ」とか「キャンディーキャンディー」とかを見て育ったとのこと。昔トルコの田舎を歩いていた時、日本人1人いない片田舎の食堂で日本語の歌が流れてきた、もちろん内容は現地語の吹き替えだったが、主題歌は日本語で何週間も日本語に接していなかったので急にホームシックにかかったのを思い出した。
「イタリアに行ったことはある?」と彼女の方から聞かれ、「私は20年も前に行ったことをがある。ナポリの大地震の後にも行ったんだ。」と話をしながら「君たちはまだ生まれて間もない頃だろうね。」と、時代が過ぎていってしまったことが自分自身から出る言葉で気づき驚く。

定刻より7分遅れて列車はPRAHAに到着。ホームに沢山の客引きが集まってくる。発展途上のバイタリティーが感じられる。
経験で客引きはどの国へ行っても気を付けなければならない。しかし今回はガイドブックを家に忘れてきてしまった。
普通ならツーリストインフォメーションで宿を確保するのだが、両替所で話しかけてきたホテルの客引きの話に(リスクの心配はあるが)乗ることにする。列車の中でPRAHAでのホテル宿泊費の相場を聞いていたのでそれを基準にする。
殺伐とした駅構内の従業員通用門を通り彼の車のところへ行く。彼の車のところには中年のアメリカ人の先客がいて、僕らの荷物を載せベンツのワゴンは街へ向かった。(ヨーロッパの鉄道駅はだいたい中心地より外れている。)
私の好きなスメタナの「モルダウ」で有名なヴルタヴァ川沿いに中心地に近づき、1週間前IMFの総会がありデモと暴動でニュースで流れた街並みを通りすぎる。街中活気に満ち溢れ、車と人とがあふれかえっている。ツント澄ました冷たい感じがする西ヨーロッパと違い、チョット前のバンコックのようで、期待と圧倒するパワーの前で押しつぶされないようとする緊張感が高まる。
石畳と道端に連なる路上駐車の脇を縫うように、「エクスプレス」と言うHOTELに連れていかれる。1泊2名トイレシャワー付きでUS$65PRAHA
では比較的安いホテルらしい。
しかし、着いて見たらアメリカ人の部屋までしかなく、私と息子の部屋はもう無いそうだ。
半分は信用していなかったのだが、「どうしてくれるんだ!」と客引きのおっさんに弱みにつけこんで詰め寄る。
「いや、君らに声をかけた時には部屋はまだあったんだ。」・・・・ 「ちょっと待て、部屋を探してやる。」・・・・・・責任を感じたのか、なかなか
いいヤツだ。
携帯電話で何人かの知合いにかけだす。1時間ぐらいしてやっと部屋が見つかる。
サルバト-レというHOTELのエージェントがやって来て、知合いのアパートの一室なら1泊2名でバス・トイレ別でUS$37。値段につられて1泊ならと彼の車に乗りこむ。PRAHAの街中をたらい回しになりながらアパートに向かう。とにかく夕方の街は車と人が多く裏道を縫うようにメインスクエア-の横を通ったりして到着。彼の縄張りのサルバト-レの前の古いアパートが目的の場所で、部屋は一番最上階の6階で通りに面した玄関で電機のスイッチを入れると、上につく前に照明が切れる構造で(何度か持っていたマグライトを点けて上る事になる。)もちろんエレベーターは無い。






 

続く

e-mail mitsu@furusatojuku.com